芸術とはなんなのか~サクラノ詩-櫻の森の上を舞う-レビュー~
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ゲーム概要
サクラノ詩-櫻の森の上を舞う-(枕・2015年発売)
脚本:すかぢ
原画:狗神煌/籠目(他)
プレイ時間:60時間
価格:7,980円
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あらすじ
「幸福の先への物語」
「それが虚無ならば虚無自身がこのとほりである程度まではみんなに共通いたします」
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうにみんなのおのおののなかのすべてですから)
『春と修羅』序
櫻の芸術家が、絵画と共に残した詩の最期には、この様に刻まれていた。
芸術家は死に、その後には、ありふれた人々の、ありふれた幸福の風景が広がる。
ふわふわの櫻の森で世界が鳴った
美しい音色で世界が鳴った
『櫻ノ詩』
春。世界的な美術家である父の死により、天涯孤独となった主人公・草薙直哉は、親友である夏目圭の家へと世話になることになる。
そこには、直哉が通う学園の担任である夏目藍、圭の妹で女優の夏目雫との交流が待っていた。
そして、新学期の到来と共に、遠い昔に転校した幼なじみ・御桜稟が、再び直哉の前に現れる。
風に巻く桜の花びらの向こう、それは、約束されていた再会のごとく—―。
時の刻みが思いを重ね、感情の奔流が形になるとき、そこで出会う光景とは?
10年越しのプロジェクトついに始動。
凍結され続けていた、サクラノ詩プロジェクトがついに再始動。
「言葉と旋律」「幸福に生きよ」をテーマに書き上げられた『素晴らしき日々~不連続存在~』のすかぢが、
そのテーマを踏襲しつつその先の物語である『サクラノ詩』を描ききる。
原画家には狗神煌、籠目を起用。10年越しの物語が実力派スタッフによって結実する。
素晴らしき日々の先の話、梯子の上にある風景は、それは反哲学的物語。ごく自然な日常の物語。
(公式サイトより)
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評価(1~2とても悪い・3~4悪い・5~6普通・7~8良い・9~10とても良い)
原画・CG:8
シナリオ :10
BGM :10
音声 :9
システム :6
総合評価 :9
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感想(ゲーム全体について)
『素晴らしき日々~不連続存在~』を手掛けた枕が10年凍結していたプロジェクト。10年の凍結期間を経て6年前に発売されたため実質16年前に練られた設定となるが、古臭さは全く感じず、2021年でも余裕で通用するような作品となっている。
このゲームにはゴッホや宮沢賢治、マネや中原中也、ゴーギャンやオスカーワイルドなどたくさんの詩人や画家が登場するが、はっきり言って全然知らなくてもプレイに支障はない。良い様に言えばこれらの芸術家を知らない人にもわかりやすく説明している。悪い様に言えば掘り下げが浅いといった所だろうか。
とはいえそれらを抜きにしてもストーリーとしては完成度は高く、ボリュームも今までプレイしたエロゲの中で1,2を争う量だったので非常に楽しめた。
また、キャラもそれぞれにきちんとした個性があり、それぞれの信念をもって行動しているため好感が持てる。
特に長山香奈なんかは評価が分かれると思うが、天才に勝とうとする執念や中途半端に才能があるからこそ手段を択ばない姿なんかから人間味があって個人的には大好きだ。
ただ、ところどころ詩を引用したり哲学的な話が入ってくるので普段抜きゲーを中心にプレイしている人などは途中でだれるかもしれない。
ちなみにシーンは声優さんの演技が良いので普通にめちゃくちゃ抜ける。
キャラクターCG
最近の絵柄と比べたら少し古いかな?といった感じ。しかしこの世界観には子の絵柄が非常によくマッチしている。なぜ続編のサクラノ刻で絵柄を変えたのか。あと何故か稟だけ横顔と立ち絵の顔の大きさがおかしいと感じた。稟以外は普通に上手いのに何故稟だけ…。
BGM
ピアノのみのBGMが非常に素晴らしい。まさに春、桜といったイメージを彷彿させるメロディーになっている。ただ芸術がテーマならもう少しクラシックをBGMに用いても良かったのではとは思う。
シナリオ
要所要所に様々な文学(主に宮沢賢治)の影響を感じる。終わり方としても素晴らしく、次回作へのリードもしっかりとしていた。ところどころ惜しいところもあったがそれは題材が題材故仕方がない部分もある。とは言えエロゲの中では突出して高い完成度を誇っている。
また、登場人物にも宮沢賢治の影響を受けていると感じるところがある。
特に藍と雫は宮沢賢治の「永訣の朝」の
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
が由来ではないだろうか。
ちょっと待ってほしい。このゲームには宮沢賢治とバイクが出てくる。
察しの良い皆さんならもう理解っただろう。そう、このゲームはあのヤンキー漫画の金字塔『
!?
藍が乗っていたバイクは500SSマッハⅢ、通称カミナリマッパである。
『特攻の拓』でカミナリマッパを乗っていたのは初代極悪蝶、初代
そして『特攻の拓』では神奈川の暴走族の戦争を主人公の拓が亡き親友、天羽時貞のバイク『
もう理解っちゃったよね。
つまり藍は暴走族の総長である可能性があるってことだよね。
ちなみにサクラノ詩は最終回で暴走した夏目家を直哉が圭のバイクに乗って泣きながら止めて連載終了
音声
基本的には素晴らしいといえる。ただ英語の発音と詩の朗読だけはうーん。。。って感じ。英語はまあ日本人だし仕方ないと思えるが、せめてフリッドマンはアメリカ人って設定なのだからそこにはこだわってほしかった。詩の朗読は声に感情がこもってないというか詩を書かれたそのままの意味で受け取っているような朗読だったのが少し残念だった。逆にフリッドマンは日本語の詩を読むのはうまかった。お前やっぱり日本人だろ。
システム
選択肢のバックができないのが使えないので選択肢毎にセーブをしなければいけないのは少し面倒だった。Ⅵ章を終えるまでExtraでmusicが開けないのはもどかしかったが、逆にそれのおかげで絶対にこのゲームをやり遂げるという気持ちにもさせたので一概に悪いとは言えない。
~~~~~~~~~~~ネタバレ注意~~~~~~~~~~~~~
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感想(各ルート)
Ⅲ Olympia
稟ルート。マネの絵画『オランピア』から。
他ルートよりシーンが多い。稟の過去や直哉が絵が描けなくなった理由が明かされる。ただあれだけ意味深に転校してきたのにあっさり直哉と付き合って終わりなのは少しびっくりした。ただその消化不良な感じもⅣ-Ⅵ章ですべて明かされるので稟ルート単体というよりかはそれ以降のⅣ‐Ⅵ章を含めて評価すべきなのかもしれない。
Ⅲ PicaPica
鳥谷ルート。モネの『かささぎ』と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる鳥使いから。
鳥谷は立ち姿も後ろ姿もかわいい。トニカクカワイイです。
鳥谷の芸術への真摯な姿勢や面倒見の良さが前面に押し出されたルート。自分は鳥谷が一番好きなのでとても楽しめた。ここで初めて中村家の人間が出てくるが相変わらず性格が悪い。鳥谷が絵ではなく陶芸の才能があるという設定は良かったが、さすがに中村のおばさんが間抜けすぎないか?さすがにあほすぎて笑いが出た。まあ全体的な流れとしては全く悪くなかったと思う。
最後のメイドシーンはめちゃくちゃ抜けました。
Ⅲ ZYPRESSEN
里奈ルート。宮沢賢治の心象スケッチ『春と修羅』の「春と修羅(mental sketch modified)」から。
里奈がなぜ精神的妹と名乗っているか、なぜ太陽に弱いかなどが明らかになるルート。
どうでもいい知識として、河内野が子供の時に来ていたTシャツに書かれているのはロシア語で猿という意味のобезьяна。なぜ猿かはわからない。
また、この章に出てくるUFT サンフラルSとは旭化成ファーマが販売している抗がん剤。主に消化器官のがんや乳がんなどに使われるらしい。シーンでは里奈の乳房は二つあったので消化器官のがん?
このルートでは宮沢賢治がよく用いられている。テキストの行ごとに一文字ずらすのも賢治が用いた手法。また、『春と修羅』を宮沢賢治の詩集といっているが『春と修羅』は詩集ではなく心象スケッチである。賢治自身生前に詩集ではなく心象スケッチであると語っていることからそのこだわりの強さが見て取れるのに。たとえ賢治を知らない人に『春と修羅』を説明するのだとしてもここだけは変えてるべきではなかったと強く感じる。あまり宮沢賢治を知らない人にしてみればそんなこと?と思うかもしれないが賢治好きの自分からしてみればどうしても譲れない。
Ⅲ Märchen
里奈・優美ルート。ドイツ語で御伽噺を意味する単語「Märchen」(日本語のメルヘンとは意味が異なる)から。
里奈のSな一面が見れる。優美が同性愛者でありその夢が短いルートとはいえしっかりかなったことには好感が持てる。ただ優美が自分のことをレズだといいすぎな気がする。こちらとしてはまったく気にしていないのに自分から意識されようとしている感があり、まるでレズというのが何か免罪符になっているかのよう。これは今の社会にも言えるがマイノリティが主張をしすぎてまるでマジョリティであること自体が罪であるように感じてしまう。別に誰もレズであることを嫌悪したり避けたりしていないのだからもう少し素直に生きればいいのに。
Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs
雫ルート。ドナルド・デイヴィドソンの当座理論から。
ドナルド・デイヴィドソンは、人が他者の言わんとするところを理解する時、前もって持っていた知識だけでは相手の言うことを理解できないことがあると言う。言い間違いや不明瞭な発話などを理解しようとするとき、われわれが用意する発話の解釈理論をデイヴィドソンは、当座理論(passinng theory)と呼ぶ。
(中略)
マラプロップ婦人は彼女が言うべきだった言葉を違う言葉に言い間違えてしまう。例えば彼女は"A nice arrangement of epithets"(あだ名のすてきな言い回し)と言おうとして、
"A nice derangement of epitaphs"(墓碑銘のすてきな乱れ)と言ってしまう。(「当座理論とは何か」尾形まり花)
葛であろうと雫であろうと本質は変わらないということ?
ここではじめて雫の正体が明かされ、直哉がどのようにして雫を守ったかや雫と稟の関係が語られる。なぜか雫ルートも稟ルートと同じくシーンが多い。
稟が千年桜を咲かそうとしたときに唱えた「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり ふるべ ゆらゆらと ふるべ」というのは死者を蘇らせるといわれた祝詞。稟は千年桜の奇蹟で母親を生き返らそうとした。結局それは失敗したが、その奇蹟で稟が母親として扱っていた人形が吹として命をもつようになった?
健一郎と直哉の最期のやり取りは非常に良かった。このサクラノ詩は男キャラに魅力があっていい。むしろ雫ルートというよりも直哉・健一郎ルートといわれたほうがしっくりくる。
Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind.
健一郎・水菜ルート。哲学者の言葉遊びから。
健一郎と水菜の出会いや夏目家と中村家の禍根などが語られるルート。
それにしても中村のおっさんはクズ過ぎる。10億で手を打つ夏目家も優しすぎでは。普通に豚箱にぶち込むべき人間。恐喝、傷害、器物損壊、強制性交で10年くらい豚箱にぶち込んでさらに10億円とってもいいくらい。
逆に健一郎はかっこいい。最初のほうは藍がなぜ夏目の屋敷に固執するのかがわからなかったが、この章を読み終わってからだとむしろ絶対に手放してはいけない屋敷だと思えた。
ストーリーはめちゃくちゃよかったが、個人的に水菜の大人になった姿も見たかった。
次回作のサクラノ刻では中村家が断絶してないかなあ。
Ⅴ The Happy Prince and Other Tales.
圭、藍ルート。オスカー・ワイルドの短編集『The Happy Prince and Other Tales.(邦題:幸福な王子その他)』から。
直哉が絵を描き始め、ムーア展に作品を出す話。
ちなみにオスカー・ワイルド自身が同性愛者であったので、このタイトルが名付けられている圭も実は直哉のことが本当に好きである可能性もあったり?
個人的には直哉に圧倒的な才能で圭を抑えて入賞してほしかったが、まあ6年も描いてなかったら仕方がないのかなあとも思う。
稟の覚醒はうーん。。。って感じ。フリッドマンが無理やり稟をムーア展の選考にねじ込んだのもそもそもそんなに権力あるのかよって感じだし、そもそも稟が記憶と能力を取り戻したからってそんなに人が変わるもんか?って思ってしまう。
逆に今までの優しくて少しドジな稟が偽物で冷たい芸術お化けが本当の稟ってこと?まあどっちも本当の稟に変わりはないんだけど急な豹変に驚いたのは確かだ。
そして最後の稟と直哉が神について語り合うところ、あそこは完全に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を意識して書かれたものだろうと思う。
タイタニック号の沈没で犠牲になったと思われる青年とその教え子たちがジョバンニと神さまについて語り合うシーン。
「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云いました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
ここで青年と女の子が言っている「神さま」とはキリスト教の唯一神のことでジョバンニの言う「神さま」とは名前もない自分の信ずる概念のことです。(本来ならば「ジョバンニの信ずる神さま」とでも呼びたいところですが、そうしてしまうと「ジョバンニの信ずる神さま」という名前が与えられてしまい、固定観念化してしまいます。ここでジョバンニが言っている「神さま」とはそんな神さまという存在ではなく、より大きいなんだかよくわからないが力がある概念であると個人的に解釈しているので、「ジョバンニの信ずる神さま」と断定してしまうとジョバンニが本当に信じている「神さま」ではなくなってしまうと判断し、あえて避けました。)
もう少し簡潔に言えば青年たちにとっての神さまは「西洋的な一神教のもとに成り立つ神」であり、ジョバンニにとっての神さまは「日本的なアニミズムのもとに成り立つ神」であるといえると思う。
『銀河鉄道の夜』の中でジョバンニと青年たちの「神さま」の価値観が相違しているように、稟と直哉の「神」の価値観もまた違っている。
稟にとっての「神」とは「最後の審判の時にすべての美醜を決めるような絶対的な神」であり直哉にとっての「神」は「人が信じたときにそばにいる神」である。これだけ見るとわかりずらいが、「神」という単語を「美」に置き換えるとわかりやすい。
もっと簡単に言えば、美のイデア(イデア=理想、完璧なもの)が見えている稟からしてみれば「なんで完璧な美があるのになおくんはそれを求めへんの?」といっているわけである。逆に直哉からしてみれば「いやいや、不完全なものにも美しさはあるよ」といっているわけである。
つまり稟にとっての「美」と「絶対的で誰が見ても美しいと思えるようなもの」であり、直哉にとっての「美」とは「見る人によって変わり、常に人のそばにあるようなもの」である。
稟はそんな直哉の「神」のことを弱い神だというが、それは『銀河鉄道の夜』の青年のように、宗教学で昔はアニミズム→多神教→一神教と進化していき、アニミズムは一番原始的だといわれたように、稟の西洋的な思想信条((主にプラトンのエロース(美のイデアへのあこがれ))が見て取れる。逆に直哉はいかにも日本主義的な思想をしている。(これは御桜家が画商で海外を相手に仕事していたのに対し、草薙家は血筋的にヤクザという日本的な存在が関わっているのにも関係する?)
そして最後の稟の『春と修羅』序の引用。
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
ここで稟がこの詩を引用したことを無理やり解釈すれば、「なおくんの言う「美」はみんなが持っているそれぞれの「美」なんだね」と納得した感じ?
Ⅵ 桜の森の下を歩む
直哉が弓張の非常勤講師になってからの話。次回作「サクラノ刻」へのプロローグ。これに関しては題名の由来は言及されていない?(梶井基次郎の『桜の樹の下』か坂口安吾の『桜の森の満開の下』?)
大まかな流れとしては、長山さんが直哉たちが完成させた「桜達の足跡」を勝手に塗り替えてそれをさらに直哉と弓張高校の生徒たちが上書きするといった内容。鳥谷を含め直哉の同級生などもちらちら出てくるので、大人になった彼女たちをみれたのは良かった。
直哉はあんなに高校の時長山さんに才能があるとかお前のことを認めてるみたいな発言をしてたのに、今回は才能がなくても0.9が続けば1になる的なことを言った長山さんに対して「0に何をかけても0だ」とか「偽物は天才に敵わない」だとか「才能のあるやつが努力して0.9が1になるんであってお前は無理」みたいな辛辣路線になったのはちょっと笑えた。
前から思ってたけど直哉さんは才能がない人に対しては少し厳しいところがあるようで。。。
実際、自分たちが一生懸命作った作品をぶっ壊されたら表面ではこれも芸術とかいいつつ内心ではブチ切れるのも十二分に理解できる。
まあ長山さんたちみたいなパフォーマンスありきの芸術家が本当に真の芸術家といえるのは甚だ疑問ではある。バンクシーなどがいい例だろう。彼の絵はバンクシーというパフォーマーによって描かれたから価値があるのであって、それが芸術的に価値があるものとは限らないということだ。というか実際バンクシーをもとに彼女らはつくられたのかもしれない。直哉はそういう自分の実力以外に頼ろうとする人嫌いそうだし。
あと日本に帰ってきた稟と雫が謎に高圧的になっていたのは謎だった。
もしこの章のタイトルが仮に梶井基次郎の『桜の樹の下』が関係しているなら、あの有名な「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」の文言の通り、直哉が作った桜のステンドグラスには健一郎や圭の思いや作風などが根底にあるのだろうか。
まあそれも次回作の「サクラノ刻」で明らかになるだろうし次回作を期待ということで。
あと「サクラノ刻」の公式サイトにはルリヲさんとノノ未ちゃんがいなかったが彼女たちは脇役ということだろうか。個人的にルリヲさんとノノ未ちゃんは好きなのでどうかメインヒロインにしてほしい。
さいごに
この「サクラノ詩」というゲームは非常に楽しめた。具体的に言えば今までプレイしたエロゲの中では1位2位を争うといったくらいの面白さだった。
次回作の「サクラノ刻」ももちろん購入するが、如何せんこの「サクラノ詩」自体、発売まで11年かかっている代物なので次も同じだとすれば少なくとも後5年は待たないといけない、ということになる。
ただ5年後に自分のエロゲ熱が冷めてないかはわからないので何とも不安だ。
次回作が1分1秒でも早く発売されることを願って。
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